次回読書会は12/14(月)19:30〜です

次回の読書会は12月14日(月)19:30〜です。
はじめての方で参加希望される方は打診ください。


前回読書会では、以下の発表がありました。


・『グレート・リセット』を読んで
・菊地夏野『日本のポストフェミニズム :「女子力」とネオリベラリズム
ワーキンググループの構想
・奥野克巳 こんまりは、片づけの谷のナウシカなのか? 


自分の発表原稿を転載します。

発表:ワーキンググループの構想

 

前回の発表では、現社会環境において個々人は食肉うさぎ工場でケージのなかに飼われたうさぎのようであるということを提起しました。そこでは自身が世界との応答関係を作り出していった結果として育まれる自律性を奪われ、世界と切り離されているために自身をエンパワーできないだけでなく、世界と自分が一体として存在していることを拒絶することが「楽」で個人の生活を充実させるには望ましいとさえ認識させられてしまいます。それは絶望の状態ともいえるでしょう。その状態からどのように逸脱していくことができるかという問いに対して、個々人におこっているプロセスに応答していくかたちの学びの場が個々それぞれに作りだされるのが望ましいと考えました。そのことを実践におとしていくにあたって、ワーキンググループという仕組みを考えています。なぜワーキンググループなのか。またワーキンググループは、上記の問題意識を踏まえるなら、どのような構造のものとして設定されるのが望ましいかを今回考えます。

 

・なぜワーキンググループという名前なのか。

鶴見俊輔は、『共同研究集団』においてサークルについて考察しています。そこから境さんが以前に抜粋された文章をまず紹介します。

 

(サークルは)「革命思想を日本の大衆の中につくりだしてゆくための文化運動の小単位だったらしい。(P4)」

「活気のあるサークルには、その底に、長い時間をかけてつきあうに足る相手だとおたがいに感じる、共有された直感がある。(P8)」

「このようにたがいに信頼をおくつきあいの中では、サークルの進行途上で、自我のくみかえがおこる。(P8)」

「サークルにおいては、話すことが考えることになりうるし、考えながら話すこともできる。(P9)」

「ここでは私有は越えられており、ここにサークルがこれに属するものに与える豊かさの感覚の源泉があると思われる。自分の考えが、他人の考えと合体し、交流し、増殖してゆく感じを体験することができる」

「自律的に一個のサークルとして計画を立てて長期にわたって活動を続けていく場合には、ばらばらの能力が結びついてゆくことがみられ・・過程そのものに打ち込む態度(P9)」

 

引用からは、サークルが個人の変容の場であることがわかります。また居場所や回復の場というものからも極めて近いものであることが感じられます。私見ですが、学びの場に必要な環境と回復の場に必要な環境は同じであると思いますし、学びと回復には根本的な違いはないと考えます。しかし、一般的な意識では回復は福祉や医療などに属するものであり、学びは教育に属するものとして、別々に捉えられ、乖離させられています。

この乖離を統合としたところでようやく実践的に考えることができると思います。その理由の一つは、回復を目的としてしまうと回復が停滞するというジレンマがあるためです。回復は派生的におこることが最もスムーズであり本来的なあり方でしょう。人間が意思を使って物事を実行するところに価値があり、そのことが正しいといまだに思われていますが、むしろ意思を使うことは自分におこっているプロセスを止めることであることが、身体を追究するいくつもの分野で指摘されています。たとえばプロセスを止めている自動的な統制状態を停止させるのが「型」ということになります。

 

街角や玄関口、待合ベンチやカフェ、そういったサードプレイス的なところは意味と意味の境界であり、意味によって強迫され停止させられている自分のプロセスが動きだすきっかけになります。意思でやろうとするとそもそもプロセスが動かず、停滞や揺り戻しもおこりますが、自分のプロセスを止めているものを打ち消すとき、結果的に自分の自律的なプロセスが動きだします。自分が行きたい方向に対して直接的に意思を行使して到達しようとするのではなく、自動的な統制状態、プロセスの停止状態が落とされた状態をまず持ってきて動き出すものに応答していく。カーリングのストーンに直接力を加えるのではなく、ストーンが行こうとする方向を整えるといったような、間接的な行為や環境設定が意思の弊害を打ち消しながら展開を派生させます。意思の使い方は、意思の弊害を打ち消すことに使われるのが適切というのが今の自分の認識です。

 

さて、前置きが長くなりましたが、名前に戻ります。まずは、多くの人が実行可能なかたちで鶴見俊輔的な意味でのサークルを囲めるようになればいいと思います。それにあたり、サークルという名前は既に趣味的な意味のものとして定着しており、世界と自分との関係を変容させていく学びの場とは遠くなると思いました。

 

一方、ワーキンググループという名前は、まず聞いたのがサンダーズなど民主的な政策提言者の後ろにその政策を考えるワーキンググループがいるという話だったかと思います。作業するグループという意味だろうと捉えましたが、余計な意味がなくシンプルです。やることがはっきりするのもいいところだと思いました。学びの場学びの場と自分は繰り返しいっていますが、学びと回復は同じというところからは学びもあまり目的にしないほうがいいのです。学びというのは、現状は上からの言葉になっていて、職業外の人があまりその言葉を使うのを聞きません。その知識の蓄積の意味がわからず強制的に詰め込まれる預金型教育が学びだと思われているのでネガティブなイメージさえあります。そういうところを含め、ネガティブイメージもイデオロギー臭も感じにくい名前としてワーキンググループは適切と思いました。

 

・ワーキンググループの意義

→ 学びのプロセスの取り戻し。自分に戻る場であり、かつ学びの場であることが学びのプロセスを活性化させる。ワーキンググループは学びを媒介させながら自分に戻っていく場所。学びを趣旨とせず、今の自分の安全安心のみを目的としたりすると、結果的に場が停滞し、いびつになっていく。また自分に戻っていくということがないところで自分に学びのプロセスがおこったりもしない。



→同時発生的な複数のワーキンググループが学びの環境を醸成する 脱「一つだけのコミュニティ」依存
 →ワーキンググループを作りなれる。最低限やることを決め、同時にお互いに探究的であり、尊厳を提供しあう学びの場であれば全てワーキンググループと考えていい。自分のデザインでいいし、自分がデザインし調整することに慣れる。ある学びがおこるためには、その学びのプロセスが動いていくにフィットした環境調整が不可欠。環境調整、環境設定をどう今おこっているプロセスにフィットさせるかこそが学びのプロセスがすすむための肝。個々人がいいワーキンググループを作ることに慣れてくると、あちらこちらで同時多発的にワーキンググループが行われるようになる。すると、自分にあった学びの環境が増えるし、一つのグループに依存してしまい、自分の自由やプロセスが左右されてしまうことが防げる。

 

 →社会主体としての個人形成の場。脱「観客」のリハビリの場。

 

 

現社会環境においては、個人主義などと言っても組織内では同質性が求められ、個人として環境に意見するなどということはおこりにくい。個人の自律性などいらないものとされているので、実態としては個人は自分の考えをもつ以前、自分の感覚をもつ以前、まだ個人以前の状態だと思われる。ワーキンググループは学びを媒介させながら個人を形成していく個人形成の場。その個人は「自分の生活」に閉じた存在ではない。個人は自分が社会そのものであることを実感し、自分を形成するために社会環境の問題に応答していく「社会主体」になっていく。

 

 

 

個人形成の場はそれぞれの個人の手づくりによって作られるものであるだろう。なぜならば自分のプロセスにフィットした媒体を自分に提供するのは自分個人しかいないからだ。たとえば、知り合いは詩を書く人だったが、広告の裏紙のようなものにしか詩を書くことができなかったという。詩など書いていない、重要なものなど書いていないというリアリティの設定をしないと、その人は詩を書くことが難しかった。もしその人が自分のプロセスが動くためのフィットした媒体を手探りすることなく、いくつもの「詩を書く市民講座」に行ったところで詩は書けないままだったのではないかと思う。自分のプロセスに対しては自分が感じとり応答する必要がある。自分のプロセスに対して、より適切なワーキンググループを作ろうと試行錯誤するリハビリの経験は自律的で応答的な個人としての自分を形成していく。

 

 →日々の生活と学びの一体化、学びの再定義、社会主体としての疎外状態からの回復

学びは余裕がある人、「アタマ」がいい人、覚えるのが好きな人がやるものだというようなイメージがあるが、ワーキンググループは学びがそのようなものではないことを体感するものとなると思う。まず自分に必要なことから始めるということ。

 

自分の場合だとべてぶくろにおける性暴力問題、当事者研究の悪用の問題、香害の問題などを取り組みはじめている。一番新しい(第一回が12月予定。)、香害のワーキンググループをはじめたのは自分自身が最近シャンプーや柔軟剤などの香料で頭痛をもよおすようになったことがきっかけ。お客さんからの香害にも苦しむ古書店の店主とともに、香料の入っていないシャンプー、石鹸、洗剤がどこで買えるかを書いたチラシを作る。一時間半ほどで終える予定。その後はまた次の必要は何かを考えたうえ、一回一回は簡潔に、確実にできることをやるのが持続的な展開のためには不可欠と考える。頑張って根性でやるというようなことは日常的なことにならず消えていくと考える。チラシは一回作ればコピーできるし人にも渡せる。ワーキンググループの作業の場自体も話の場にもなる。話しましょうという場はそれはそれで作っていいが、作業しながらだと内容のあることを話さないとと思うことから解放されて出てくる話もある。

 

・現在の状況

ワーキンググループを人にどのように提示し、自分も実践していけばいいのかを実践を通して確かめ、整理している。非差別的コミュニケーションのワーキンググループなど、色々構想はあるがまずはすぐできるところからはじめている。