次回読書会は11/30(月)19:30〜です

次回読書会の日程は調整さんで調整中ですがおおよそ11月30日(月)19:30〜になりそうです。前回読書会では、以下の発表がありました。

・高校の話 (体験談と考察)
・菅豊『新しい野の学問の時代へ』
・菊地夏野『日本のポストフェミニズム :「女子力」とネオリベラリズム
・アニメ「キルラキル
・脱「うさぎ化」の方法 (考察)

自分の発表レジメの転載をします。

11/9南区DIY読書会

◇前回の発表から 脱うさぎ化していくために

 前回の発表では、現社会における人間の根本的な疎外とは、人があたかも食肉うさぎのように個々のケージに入れられ、世界との直接的な応答関係が作りだしていくことがあらかじめ奪われていることではないかということを提起しました。

 ここにはそもそも「国」というものが人間を養殖をするシステムであるということがあると思います。自律的にそれぞれの住む場所を自治していた人々から自治を奪い、自律的な分配権を奪って依存させることで、人は世界との直接的な応答関係を奪われ、自信を失い、飼われた家畜のように無力になり、同時に無感覚になり、傲慢になってしまいます。

 重要なのは自分の生を左右する力をもった雇用者なり国なりであり、「賦役」が終わればあとは閉じた自分のケージで王様になることでその「ストレス」をなだめるという欺瞞的な生をおくる仕組みが整えられ、それが当然のように思えるようになっていると思います。

 たとえば在日朝鮮人の現在までに続く歴史的抑圧があってもそれは他人事であり、なぜ自分が他人に関わらなければいけないのかという意識があります。世界が一体であり自分がそこと応答関係をもっていることが疎外され、今度は逆に関わりたくない関係性を遮断し、自分を非歴史的存在にし(そのことによって実は力が奪われていますが。)、ただ自分の欲望(それすら社会によって植えこまれた)を発散させることが幸せであると思うようになります。

 世界と応答関係を持つことではなく、世界との一体性を否定し、積極的な遮断をすることによって、矮小化された自分をなだめることは、しかし、社会がマジョリティ(都合のいい家畜)のために用意した前提や仕組みから外れることで途端に成り立たなくなってしまいます。社会によってスタートとゴールが決められた「人生ゲーム」のマス目から飛び出たコマは想定外のものとして、あるいはもう「社会」に必要のないものとして切り捨てられます。

 社会によって作られた世界イメージ、「人生ゲーム」の勝者になることが個々人に内在化され、「人生ゲーム」を有利にするための序列の価値が内面化されます。その一旦内面化された他者の価値観から逸脱し、個性ある自身と世界との応答関係を作りだしていくまでは、いわば自分は自分以前のものであり、また自分というのは固まった人格ではなく、応答関係のなかで変容していく存在ということになるかと思います。

 読書会などで重要だなと思うのは、自律的な変容のプロセスに応答する身体になっていくことです。預金型教育を学びであり教育であると思わされ、また強制的に預金型教育をされてきた自意識にとって、学びとは強制であり、テストがすぎれば意味のない知識、自分というプロセスとは関係のない知識を無理やり記憶することであるようにイメージづけられています。

 それに対しては、自分の表現したいこととそれに対する表現を自分なりに何度も往復して確かめていくことがいわば脱うさぎ化をすすめると考えています。かたちや義務にこだわらず、自分におこっているプロセスに対し自分なりに(無理なく)応答することをつかんでいくということです。しかしこれは高度な技術の獲得ということでもなく、もともとやっていたことが疎外された状態になっているので元にもどっていくということです。自律的なものは自意識の意図や訓練によって獲得されるのではなく、そもそも自律的なのだから「重力」はそちらに戻るようにはたらいていると気づくならば元にもどるために頑張りすぎて疲弊するということもなく、むしろ応答は自分のエネルギーをみたしていくことだと実感するようになるのだと思います。


◇以下、前回発表分の案を若干更新したり、付け加えたもの。◇

【今後の活動の展望】
 ある種世間的には自分の生活に直接には関係のない、教養を高めるような、余裕がある人が学びの場におもむくといった感じかもしれませんが、現状で具体的な必要があるところからはじめる読書会なり学習会なりといったものが生活者にとっては自然な学びとの関わりであるように思えています。

具体的には、たとえば以下のようなワーキンググループをつくることを考えています。(ワーキンググループは作業や制作をするだけではなく、読書会の体裁をとり、関連分野の書籍を含めたDIY読書会のような自由裁量の多い読書会にし、読書会のみの参加なども可能というかたちなど考えています。)

・マイノリティ属性を持つ人が話の場をつくるにあたって必要なグランドルール(既に各自で作られていると思いますが一般向け(周りの人向け)につくるとしたらということで具体的につくります。→「完璧」な教科書や指針をつくるのが目的ではありません。グランドルールづくりは実際に自分の頭で考えるワークでもあり、自分が場づくりをする際の前段階の整えや準備でもあります。

・そもそも人権とは何か、尊厳とは何かを社会で実際におこっている問題から定義していくワーキンググループ。


・様々な場所で話の場をつくる時におこりうる性加害、差別言動による加害に対して、事前の防止的枠組みづくり、加害がおこった場合の対応、加害者および被害者に対する具体的な対応の要項づくりをするワーキンググループ。

・個人が歴史的存在であることの回復。歴史年表づくり。学校が教える波風を立てない「公的」な歴史ではなく、自分のマイノリティ属性やそこに関わるこれまでの歴史を調べていく。これは、宇井純『自主講座「公害原論」の15年』を僕が読んで、公害の問題を研究する分野がそもそも当時の学問上にはなかったこと、そのため宇井純たちが自分たちで学びの場をつくりださなければいけなかったこと、その学びの場が多種多様な活動の基盤になり、現在も自主講座運動から派生した活動があること、その割に自主講座の活動は歴史的に全容を明らかにされるよりも記憶から消えてしまうことがわかった。必要な歴史はいとも簡単に世間の歴史から消えてしまうので、歴史を自ら編纂する主体になる。

・非差別コミュニケーションを演劇的に学んでいく場
 非暴力コミュニケーションの非差別版。実際にどのような差別があり、それはなぜ差別なのかを理解し、またどのようにその差別に対応できるのかを演劇的ワークを取り入れながら学んでいく場。

・企業や大学など組織に対して、企業外部からハラスメントのガイドラインをつくり提示できるようにするために、ハラスメントのガイドラインをつくる。また加害がおこった時にどういった対応を組織がすべきなのか、具体的な要項をつくる。


・べてぶくろ性加害隠蔽の被害当事者がネットで告発を行った時に、それに対して第三者はコメントを控えるべきだという福祉系サイトの理事の発言(その後にべてるの家とのイベントをひかえていた。)。組織と個人の力関係にもともと圧倒的な差があるうえに、第三者が応援できないとなると個人は余計に弱くなってしまう。個人は声を上げ続けなければただ消されてしまう。組織と個人の圧倒的な非対称性があるなかで、一見「理性的な発言」にみせて抑圧が行なわれる。 

→現社会環境において個人の声が消されていくことに対してどのように自分自身のプロセスを維持できるか、また世間が社会がどのようなことをやってくるかを研究し対応の体制を具体的に考えてまとめていくワーキンググループ。
SNS上で被害者に対する配慮のない言及に対してどのように対処や対応できるか、そもそも被害者の目に入るところではどう書かれるべきなのかを考えてガイドライン作成していくSNS対応のワーキンググループ。
斎藤環医師のツイッター発言の炎上のケース他、多数の類似ケースからは一見「先進的」
だったり「知性的」な発言をする人にも根強い女性蔑視の内在化が認められ、指摘されてもなおその差別性を自分では認められるのは困難であることがうかがえる。社会でおこる具体的な事例を取り上げ、研究し蓄積していくワーキンググループ。