次回読書会は12/14(月)19:30〜です

次回の読書会は12月14日(月)19:30〜です。
はじめての方で参加希望される方は打診ください。


前回読書会では、以下の発表がありました。


・『グレート・リセット』を読んで
・菊地夏野『日本のポストフェミニズム :「女子力」とネオリベラリズム
ワーキンググループの構想
・奥野克巳 こんまりは、片づけの谷のナウシカなのか? 


自分の発表原稿を転載します。

発表:ワーキンググループの構想

 

前回の発表では、現社会環境において個々人は食肉うさぎ工場でケージのなかに飼われたうさぎのようであるということを提起しました。そこでは自身が世界との応答関係を作り出していった結果として育まれる自律性を奪われ、世界と切り離されているために自身をエンパワーできないだけでなく、世界と自分が一体として存在していることを拒絶することが「楽」で個人の生活を充実させるには望ましいとさえ認識させられてしまいます。それは絶望の状態ともいえるでしょう。その状態からどのように逸脱していくことができるかという問いに対して、個々人におこっているプロセスに応答していくかたちの学びの場が個々それぞれに作りだされるのが望ましいと考えました。そのことを実践におとしていくにあたって、ワーキンググループという仕組みを考えています。なぜワーキンググループなのか。またワーキンググループは、上記の問題意識を踏まえるなら、どのような構造のものとして設定されるのが望ましいかを今回考えます。

 

・なぜワーキンググループという名前なのか。

鶴見俊輔は、『共同研究集団』においてサークルについて考察しています。そこから境さんが以前に抜粋された文章をまず紹介します。

 

(サークルは)「革命思想を日本の大衆の中につくりだしてゆくための文化運動の小単位だったらしい。(P4)」

「活気のあるサークルには、その底に、長い時間をかけてつきあうに足る相手だとおたがいに感じる、共有された直感がある。(P8)」

「このようにたがいに信頼をおくつきあいの中では、サークルの進行途上で、自我のくみかえがおこる。(P8)」

「サークルにおいては、話すことが考えることになりうるし、考えながら話すこともできる。(P9)」

「ここでは私有は越えられており、ここにサークルがこれに属するものに与える豊かさの感覚の源泉があると思われる。自分の考えが、他人の考えと合体し、交流し、増殖してゆく感じを体験することができる」

「自律的に一個のサークルとして計画を立てて長期にわたって活動を続けていく場合には、ばらばらの能力が結びついてゆくことがみられ・・過程そのものに打ち込む態度(P9)」

 

引用からは、サークルが個人の変容の場であることがわかります。また居場所や回復の場というものからも極めて近いものであることが感じられます。私見ですが、学びの場に必要な環境と回復の場に必要な環境は同じであると思いますし、学びと回復には根本的な違いはないと考えます。しかし、一般的な意識では回復は福祉や医療などに属するものであり、学びは教育に属するものとして、別々に捉えられ、乖離させられています。

この乖離を統合としたところでようやく実践的に考えることができると思います。その理由の一つは、回復を目的としてしまうと回復が停滞するというジレンマがあるためです。回復は派生的におこることが最もスムーズであり本来的なあり方でしょう。人間が意思を使って物事を実行するところに価値があり、そのことが正しいといまだに思われていますが、むしろ意思を使うことは自分におこっているプロセスを止めることであることが、身体を追究するいくつもの分野で指摘されています。たとえばプロセスを止めている自動的な統制状態を停止させるのが「型」ということになります。

 

街角や玄関口、待合ベンチやカフェ、そういったサードプレイス的なところは意味と意味の境界であり、意味によって強迫され停止させられている自分のプロセスが動きだすきっかけになります。意思でやろうとするとそもそもプロセスが動かず、停滞や揺り戻しもおこりますが、自分のプロセスを止めているものを打ち消すとき、結果的に自分の自律的なプロセスが動きだします。自分が行きたい方向に対して直接的に意思を行使して到達しようとするのではなく、自動的な統制状態、プロセスの停止状態が落とされた状態をまず持ってきて動き出すものに応答していく。カーリングのストーンに直接力を加えるのではなく、ストーンが行こうとする方向を整えるといったような、間接的な行為や環境設定が意思の弊害を打ち消しながら展開を派生させます。意思の使い方は、意思の弊害を打ち消すことに使われるのが適切というのが今の自分の認識です。

 

さて、前置きが長くなりましたが、名前に戻ります。まずは、多くの人が実行可能なかたちで鶴見俊輔的な意味でのサークルを囲めるようになればいいと思います。それにあたり、サークルという名前は既に趣味的な意味のものとして定着しており、世界と自分との関係を変容させていく学びの場とは遠くなると思いました。

 

一方、ワーキンググループという名前は、まず聞いたのがサンダーズなど民主的な政策提言者の後ろにその政策を考えるワーキンググループがいるという話だったかと思います。作業するグループという意味だろうと捉えましたが、余計な意味がなくシンプルです。やることがはっきりするのもいいところだと思いました。学びの場学びの場と自分は繰り返しいっていますが、学びと回復は同じというところからは学びもあまり目的にしないほうがいいのです。学びというのは、現状は上からの言葉になっていて、職業外の人があまりその言葉を使うのを聞きません。その知識の蓄積の意味がわからず強制的に詰め込まれる預金型教育が学びだと思われているのでネガティブなイメージさえあります。そういうところを含め、ネガティブイメージもイデオロギー臭も感じにくい名前としてワーキンググループは適切と思いました。

 

・ワーキンググループの意義

→ 学びのプロセスの取り戻し。自分に戻る場であり、かつ学びの場であることが学びのプロセスを活性化させる。ワーキンググループは学びを媒介させながら自分に戻っていく場所。学びを趣旨とせず、今の自分の安全安心のみを目的としたりすると、結果的に場が停滞し、いびつになっていく。また自分に戻っていくということがないところで自分に学びのプロセスがおこったりもしない。



→同時発生的な複数のワーキンググループが学びの環境を醸成する 脱「一つだけのコミュニティ」依存
 →ワーキンググループを作りなれる。最低限やることを決め、同時にお互いに探究的であり、尊厳を提供しあう学びの場であれば全てワーキンググループと考えていい。自分のデザインでいいし、自分がデザインし調整することに慣れる。ある学びがおこるためには、その学びのプロセスが動いていくにフィットした環境調整が不可欠。環境調整、環境設定をどう今おこっているプロセスにフィットさせるかこそが学びのプロセスがすすむための肝。個々人がいいワーキンググループを作ることに慣れてくると、あちらこちらで同時多発的にワーキンググループが行われるようになる。すると、自分にあった学びの環境が増えるし、一つのグループに依存してしまい、自分の自由やプロセスが左右されてしまうことが防げる。

 

 →社会主体としての個人形成の場。脱「観客」のリハビリの場。

 

 

現社会環境においては、個人主義などと言っても組織内では同質性が求められ、個人として環境に意見するなどということはおこりにくい。個人の自律性などいらないものとされているので、実態としては個人は自分の考えをもつ以前、自分の感覚をもつ以前、まだ個人以前の状態だと思われる。ワーキンググループは学びを媒介させながら個人を形成していく個人形成の場。その個人は「自分の生活」に閉じた存在ではない。個人は自分が社会そのものであることを実感し、自分を形成するために社会環境の問題に応答していく「社会主体」になっていく。

 

 

 

個人形成の場はそれぞれの個人の手づくりによって作られるものであるだろう。なぜならば自分のプロセスにフィットした媒体を自分に提供するのは自分個人しかいないからだ。たとえば、知り合いは詩を書く人だったが、広告の裏紙のようなものにしか詩を書くことができなかったという。詩など書いていない、重要なものなど書いていないというリアリティの設定をしないと、その人は詩を書くことが難しかった。もしその人が自分のプロセスが動くためのフィットした媒体を手探りすることなく、いくつもの「詩を書く市民講座」に行ったところで詩は書けないままだったのではないかと思う。自分のプロセスに対しては自分が感じとり応答する必要がある。自分のプロセスに対して、より適切なワーキンググループを作ろうと試行錯誤するリハビリの経験は自律的で応答的な個人としての自分を形成していく。

 

 →日々の生活と学びの一体化、学びの再定義、社会主体としての疎外状態からの回復

学びは余裕がある人、「アタマ」がいい人、覚えるのが好きな人がやるものだというようなイメージがあるが、ワーキンググループは学びがそのようなものではないことを体感するものとなると思う。まず自分に必要なことから始めるということ。

 

自分の場合だとべてぶくろにおける性暴力問題、当事者研究の悪用の問題、香害の問題などを取り組みはじめている。一番新しい(第一回が12月予定。)、香害のワーキンググループをはじめたのは自分自身が最近シャンプーや柔軟剤などの香料で頭痛をもよおすようになったことがきっかけ。お客さんからの香害にも苦しむ古書店の店主とともに、香料の入っていないシャンプー、石鹸、洗剤がどこで買えるかを書いたチラシを作る。一時間半ほどで終える予定。その後はまた次の必要は何かを考えたうえ、一回一回は簡潔に、確実にできることをやるのが持続的な展開のためには不可欠と考える。頑張って根性でやるというようなことは日常的なことにならず消えていくと考える。チラシは一回作ればコピーできるし人にも渡せる。ワーキンググループの作業の場自体も話の場にもなる。話しましょうという場はそれはそれで作っていいが、作業しながらだと内容のあることを話さないとと思うことから解放されて出てくる話もある。

 

・現在の状況

ワーキンググループを人にどのように提示し、自分も実践していけばいいのかを実践を通して確かめ、整理している。非差別的コミュニケーションのワーキンググループなど、色々構想はあるがまずはすぐできるところからはじめている。

次回読書会は11/30(月)19:30〜です

次回読書会の日程は調整さんで調整中ですがおおよそ11月30日(月)19:30〜になりそうです。前回読書会では、以下の発表がありました。

・高校の話 (体験談と考察)
・菅豊『新しい野の学問の時代へ』
・菊地夏野『日本のポストフェミニズム :「女子力」とネオリベラリズム
・アニメ「キルラキル
・脱「うさぎ化」の方法 (考察)

自分の発表レジメの転載をします。

11/9南区DIY読書会

◇前回の発表から 脱うさぎ化していくために

 前回の発表では、現社会における人間の根本的な疎外とは、人があたかも食肉うさぎのように個々のケージに入れられ、世界との直接的な応答関係が作りだしていくことがあらかじめ奪われていることではないかということを提起しました。

 ここにはそもそも「国」というものが人間を養殖をするシステムであるということがあると思います。自律的にそれぞれの住む場所を自治していた人々から自治を奪い、自律的な分配権を奪って依存させることで、人は世界との直接的な応答関係を奪われ、自信を失い、飼われた家畜のように無力になり、同時に無感覚になり、傲慢になってしまいます。

 重要なのは自分の生を左右する力をもった雇用者なり国なりであり、「賦役」が終わればあとは閉じた自分のケージで王様になることでその「ストレス」をなだめるという欺瞞的な生をおくる仕組みが整えられ、それが当然のように思えるようになっていると思います。

 たとえば在日朝鮮人の現在までに続く歴史的抑圧があってもそれは他人事であり、なぜ自分が他人に関わらなければいけないのかという意識があります。世界が一体であり自分がそこと応答関係をもっていることが疎外され、今度は逆に関わりたくない関係性を遮断し、自分を非歴史的存在にし(そのことによって実は力が奪われていますが。)、ただ自分の欲望(それすら社会によって植えこまれた)を発散させることが幸せであると思うようになります。

 世界と応答関係を持つことではなく、世界との一体性を否定し、積極的な遮断をすることによって、矮小化された自分をなだめることは、しかし、社会がマジョリティ(都合のいい家畜)のために用意した前提や仕組みから外れることで途端に成り立たなくなってしまいます。社会によってスタートとゴールが決められた「人生ゲーム」のマス目から飛び出たコマは想定外のものとして、あるいはもう「社会」に必要のないものとして切り捨てられます。

 社会によって作られた世界イメージ、「人生ゲーム」の勝者になることが個々人に内在化され、「人生ゲーム」を有利にするための序列の価値が内面化されます。その一旦内面化された他者の価値観から逸脱し、個性ある自身と世界との応答関係を作りだしていくまでは、いわば自分は自分以前のものであり、また自分というのは固まった人格ではなく、応答関係のなかで変容していく存在ということになるかと思います。

 読書会などで重要だなと思うのは、自律的な変容のプロセスに応答する身体になっていくことです。預金型教育を学びであり教育であると思わされ、また強制的に預金型教育をされてきた自意識にとって、学びとは強制であり、テストがすぎれば意味のない知識、自分というプロセスとは関係のない知識を無理やり記憶することであるようにイメージづけられています。

 それに対しては、自分の表現したいこととそれに対する表現を自分なりに何度も往復して確かめていくことがいわば脱うさぎ化をすすめると考えています。かたちや義務にこだわらず、自分におこっているプロセスに対し自分なりに(無理なく)応答することをつかんでいくということです。しかしこれは高度な技術の獲得ということでもなく、もともとやっていたことが疎外された状態になっているので元にもどっていくということです。自律的なものは自意識の意図や訓練によって獲得されるのではなく、そもそも自律的なのだから「重力」はそちらに戻るようにはたらいていると気づくならば元にもどるために頑張りすぎて疲弊するということもなく、むしろ応答は自分のエネルギーをみたしていくことだと実感するようになるのだと思います。


◇以下、前回発表分の案を若干更新したり、付け加えたもの。◇

【今後の活動の展望】
 ある種世間的には自分の生活に直接には関係のない、教養を高めるような、余裕がある人が学びの場におもむくといった感じかもしれませんが、現状で具体的な必要があるところからはじめる読書会なり学習会なりといったものが生活者にとっては自然な学びとの関わりであるように思えています。

具体的には、たとえば以下のようなワーキンググループをつくることを考えています。(ワーキンググループは作業や制作をするだけではなく、読書会の体裁をとり、関連分野の書籍を含めたDIY読書会のような自由裁量の多い読書会にし、読書会のみの参加なども可能というかたちなど考えています。)

・マイノリティ属性を持つ人が話の場をつくるにあたって必要なグランドルール(既に各自で作られていると思いますが一般向け(周りの人向け)につくるとしたらということで具体的につくります。→「完璧」な教科書や指針をつくるのが目的ではありません。グランドルールづくりは実際に自分の頭で考えるワークでもあり、自分が場づくりをする際の前段階の整えや準備でもあります。

・そもそも人権とは何か、尊厳とは何かを社会で実際におこっている問題から定義していくワーキンググループ。


・様々な場所で話の場をつくる時におこりうる性加害、差別言動による加害に対して、事前の防止的枠組みづくり、加害がおこった場合の対応、加害者および被害者に対する具体的な対応の要項づくりをするワーキンググループ。

・個人が歴史的存在であることの回復。歴史年表づくり。学校が教える波風を立てない「公的」な歴史ではなく、自分のマイノリティ属性やそこに関わるこれまでの歴史を調べていく。これは、宇井純『自主講座「公害原論」の15年』を僕が読んで、公害の問題を研究する分野がそもそも当時の学問上にはなかったこと、そのため宇井純たちが自分たちで学びの場をつくりださなければいけなかったこと、その学びの場が多種多様な活動の基盤になり、現在も自主講座運動から派生した活動があること、その割に自主講座の活動は歴史的に全容を明らかにされるよりも記憶から消えてしまうことがわかった。必要な歴史はいとも簡単に世間の歴史から消えてしまうので、歴史を自ら編纂する主体になる。

・非差別コミュニケーションを演劇的に学んでいく場
 非暴力コミュニケーションの非差別版。実際にどのような差別があり、それはなぜ差別なのかを理解し、またどのようにその差別に対応できるのかを演劇的ワークを取り入れながら学んでいく場。

・企業や大学など組織に対して、企業外部からハラスメントのガイドラインをつくり提示できるようにするために、ハラスメントのガイドラインをつくる。また加害がおこった時にどういった対応を組織がすべきなのか、具体的な要項をつくる。


・べてぶくろ性加害隠蔽の被害当事者がネットで告発を行った時に、それに対して第三者はコメントを控えるべきだという福祉系サイトの理事の発言(その後にべてるの家とのイベントをひかえていた。)。組織と個人の力関係にもともと圧倒的な差があるうえに、第三者が応援できないとなると個人は余計に弱くなってしまう。個人は声を上げ続けなければただ消されてしまう。組織と個人の圧倒的な非対称性があるなかで、一見「理性的な発言」にみせて抑圧が行なわれる。 

→現社会環境において個人の声が消されていくことに対してどのように自分自身のプロセスを維持できるか、また世間が社会がどのようなことをやってくるかを研究し対応の体制を具体的に考えてまとめていくワーキンググループ。
SNS上で被害者に対する配慮のない言及に対してどのように対処や対応できるか、そもそも被害者の目に入るところではどう書かれるべきなのかを考えてガイドライン作成していくSNS対応のワーキンググループ。
斎藤環医師のツイッター発言の炎上のケース他、多数の類似ケースからは一見「先進的」
だったり「知性的」な発言をする人にも根強い女性蔑視の内在化が認められ、指摘されてもなおその差別性を自分では認められるのは困難であることがうかがえる。社会でおこる具体的な事例を取り上げ、研究し蓄積していくワーキンググループ。

次回DIY読書会は10/12(月)19:30〜

次回のDIY読書会は10月12日の19時半からです。

 

前回発表した「尊重について」を転載します。

 

2020年9月 私の探究・研究相談室

◇発表の概要と自分のスタンス
 この発表は、個々人の依拠する自己像を日常的で無自覚な侮蔑や見下しで侵害し毀損していく現社会環境において、この状況を変えていくための軸が「尊重の獲得」にあるのではないかと仮定し、その可能性を考えてみたものです。ここにおいて「尊重」は単に「人を自分なりに大切にする」などの個々人が適当に持っている曖昧なイメージではなく、むしろそういう曖昧なイメージに依拠することをやめ、「尊重」を明確な筋の話にできないかと考えています。つまり尊重していないという事態は、それをおこなったその人がどんなつもりとか意思とか感情や理解できるかできないかなどの「心理主義」と関係がなく、自分と違う体をもち、自分と違う歴史的文脈や文化を生きる他人に対して「筋違い」のことをおこなったということになると考えます。

 自分のスタンスとしては、特に話の場や学びの場などをイメージして考えています。人が変化していく場面においてより重要となる具体的な尊重のあり方を考えることで、日常において立ち返る判断基準の手がかりを得られると考えています。

 

◇尊重と文化 
1 個々人の考えや感覚に任せれば個々人は自分の知らないものに排除的になったり、あるいはその存在が無いものとして振る舞う。社会的存在であること、お互いさまの関係である人間が、その自己中心性、自己完結性によるお互いの疎外を打ち消すための文化として、またお互いが社会的存在であることに対してのけじめとして尊重が必要になる。

 

 もしやったことの結果をよく踏まえない人がいてアパートの屋上から自分が毎日歩いている道路へぽいぽいと色んなモノを投げて遊んでいたら、その人がどれだけ悪気なく楽しい気分でやっていても、気分が救われると感じていたとしても、止めようとすると思います。その人は何が悪いのかわからず、自分の自由を制限することに強く反発するかもしれません。君も投げたらいいとか、自分が満足する代わりの遊びをあなたが見つけない限りやめない、あなたは自分に対して責任をとる必要があるというかもしれません。しかし、その人の投げる行為によって自分は不可逆的な身体的毀損を受ける可能性があります。そのような不可逆的な毀損をあなたは引き受けるのかと難癖をつけてくる相手に問うならば、さすがの相手もそれを認めることが難しいように思います。(それでも認めない場合はあるでしょうが。)


2 尊重はそもそも自分の既知の世界の外にいる他者に対してあるもの。既知の外(自分が知らないこと、わからないこと)のことに対してあらかじめ既知のうちで態度を決めているのならそこに尊重はない。尊重とは現在の自分の心理的実感では正しく捉えられないことに向き合うことであるという土台となる前提の共有からしかはじまらない。多くの「議論」が最初から尊重を拒絶していることが思い返される。

 

 他人に対して重大な毀損を与えることに対して自分がどういうつもりであったのかというような内面の心理は関係がありません。別の体を持ち、別の歴史的文脈をもち、別の文化を持っている他人同士が一方的に毀損されないためには、お互いがどういうつもりだったのかなどによって無化されない指針、個人的な感情や気分では左右されない指針の共有が必要でしょう。その指針によってようやく個人は自らが持っているゆがみや偏りに対してけじめをつけることができるのだと思います。尊重とは、自分が現在持っている基準と関係なく、別の生を生きる不可知な存在である他者の存在を認めるという文化的指針でありけじめのことでしょう。それにより結果的に自分自身も相手に心理的に「理解」されずとも人間として守られるのだと思います。逆に相手が自分の感覚や考えが絶対化され、その感覚と違うからあなたを尊重することはできないということがまかり通るような環境は、人間が人間であることをやめざるを得ず殺伐とした野生状態にもどった非文化的環境であるといえるのではないかと思います。

 

一例を出すならば、カウチサーフィンというお互いに最初は知らなかった人が宿を貸し合う仕組みがあります。もちろん問題もおこっているでしょうが、基本的に全く知らない相手にもかかわらず、危険をおよぼさないという仮定を信じなければ成り立たないし、またそう仮定しないことには文化的なことは育たないのです。別の国に旅をするということも全ての危険を疑いながら通り過ぎる単なるサバイバルになってしまいます。文化の豊かさとは自分以外のものに自分をゆだねる豊かさであり、潜在的な危険もあるのにおこなっている前のめりな信頼を前提として受け取っているものです。人は他人に自分の生命保持を含めて自分をゆだねているのであり、その前のめりの信頼を裏切ることは、その被害個人だけでなく、お互いの関係性において維持されている文化への深刻な毀損と加害になります。


◇日常的な侮蔑や見下しの現れとその対応
1 日常的な見下しや診断、侮蔑に溢れた世間 尊重はなく話をきくということも知らない
 内面のことを含めた話の場がなかなかないなと大学のころから思っていました。世間一般においては人の話を聞くということがなされていないと認識しています。その人を尊重して話を聞くということがそもそもどういうことかも理解されていない。自分の間尺や「世間の普通」で他人の言うことを診断したり、考えるな気にするなみたいなことを言うのがアドバイスだと思っていたり、苦しんでいる人に対して、まずその苦しみを受けとめ共に見つめるのではなく、それを苦しみと思うあなたの捉え方が間違っているとか、悪気なく平気で言います。

 

2 仕方がないから自給的に場をつくる
 そういうわけで、まず自分の周りに話ができる場を作らないとどうにもならないと思って当事者研究の場を何箇所かでやってみました。そこでやったことが基盤となって、今の個人的な人間関係において話ができないという感覚はありません。振り返ってみると、内面的な話が特に場を作らなくても自然にできる人が周りに増え、いざちゃんとした話しの場を持とうとしたとき応答してくれる人たちとつながったと思います。周りの人たちは、自分で話の場をもうけることができるので、何かあれば話の場をもうけて話しあいます。

 

3 周りの環境は自分の求めに対して変わっていっているが世間は変わっていない
 個人的な範囲においてはそれで必要は満たすことができるようになりましたが、世間一般が話しを聞かず、人を尊重しないということはまるで変わっていません。僕は尊重とは綺麗事ではなく、尊重のもとでしか人はその人として変化していくことができず、不本意に直面している状況を停滞させてしまうと思います。またこの社会にある女性蔑視、在日の人たちへの差別、性的マイノリティにへの差別、外国人差別などは発言する本人にとって「差別でもなんでもない」と思われることが、実際にはその人たちへの日常的な侮蔑や見下しを含むことを知らない状況です。差別とは何かということを一個一個覚えていくことも重要ですが、まず自分が知らない他人の尊重とは何かから問いたいと思っています。


◇存在の毀損がどういうものか
1 スマホのヒビ 自己像の毀損
 日常的で無自覚な侮蔑や見下しを受けることは、その人の核を傷つけます。その核は普段は意識されていないのですが、侮蔑や見下しによって内奥を傷つけられるときに感じられます。そして侮蔑によって毀損された自己像はその侮蔑を日々反芻させます。たとえてみれば、普段使っているスマホがあったとして、誰かがそれをぞんざいにそこらへんに投げてヒビをいれます。そのことを指摘すると「ああ悪気はなかったし」と軽くいなされそれで済まされてしまいます。それ以後、普段使うスマホはいつもヒビが入っています。そのヒビを見るたびに侮蔑的に扱われたことが思い出され、みじめな気持ちになります。なぜ自分はあのように扱われなければならなかったのか。そういうふうに扱われる自分とは何なのか。なぜ自分はあのとき何かできなかったのか。不甲斐ない思いに苛まれ、それが別の失敗を引き起こしたり、不全感が高まり何かをやること自体を恐れてしまったり、自分として生きている感覚が奪われます。スマホは買い換えたり、画面を交換したりできるでしょうが、毀損された自己像に入ったヒビはいつまでもそのままであり、そのヒビが入ったときの惨めさを何度でも思い返させます。その人の時間は止まってしまい、ただその惨めさに対応するのが精一杯の日々になってしまいます。

 

2 存在の毀損 存在の陵辱 尊重と尊厳 重さ
 軽い気持ちで言ったことであれ、その言葉が相手の自己像の核を侵害して毀損することはおこりうることです。そしてそのことによってその後も本人のなかで侮蔑体験が繰り返されることを考えるならばそれは相手の存在の陵辱、実存の陵辱をおこなったにひとしいと思われます。誰も相手の存在を陵辱する権利は持たないし、一度与えた陵辱を消してしまうこともできません。踏み入ってはいけないところまで踏み入ってしまったことを自分の罪として認め、その重さを引き受けることによって、今の自身の価値認識が解体されることが求められます。それは死と再生の過程とも人間化の過程ともいえ、尊厳とは何かを知るということでもあるかと思います。人を尊重するということは、人に対して尊厳を提供するということでもあると思いますが、尊重や尊厳の理解とはある人が依拠している価値を侵食するようなことを決しておこなってはいけないという理解であると思います。どのようなジャッジも意味や有用性も入ってはいけない、意味の侵入を断固として拒絶する場所、意味の真空地帯が人間が人間としての生を取り戻していく場所であり、人間が依拠するところでもあるのだと思います。尊重や尊厳というと、最大限に肯定的な敬意を提供するようなことのように思えてそうではなく、相手を不可知な存在として、いかなる世間的価値基準によってもその人の存在を規定するような意味や規定を断固としてその人に侵食させないということであり、肯定的にとらえておけばいいだろうということではありません。自分が思っている「肯定的」などはまるで存在に対する侮辱でありうることを踏まえる必要があります。あなたの考えの枠組みで他人を判断するなということでもあります。尊重するとは不可知なものに対する向き合いのことなのです。

 

2 止まった時間を動かすための尊重
 記憶自体は残っていても記憶による二次的なみじめさや怒りなどの反応は軽減させることはできうると思われます。時間が止まり凍りついた記憶に時間を与え、経過させていきます。そのときのリアリティを喚起させながらそれが経過していくために必要な環境設定を整えます。経過のプロセスはもともと自律的であるととらえ、その経過のプロセスが求めること、打診してくる体験を自分に与えます。重要な環境設定は、その経過が浮かび上がり展開することを阻害する不安要素、更に傷つくかもしれない可能性などを取り除くことであるでしょう。物理的な危険への不安だけでなく、その人の存在の意味が規定され序列づけられような自分の価値基準を場に侵入させること自体を控えることが適切であると思います。それが言動のけじめということになると思います。

 

3 非文化的社会との対峙
 社会福祉法人浦河べてるの家の関連施設べてぶくろでおこった性加害の被害者への抑圧は被害者の告発があってなお、べてぶくろが優位に立ったままやりとりが行われています。いったいこれまでべてるの家が主張してきたことはなんだったのでしょうか。結局は自分たちの作った「救済システム」だったり自分たちのステイタスの向上、組織の維持が大事なのであって、人間に対し人間として向き合うということをどこかの組織に期待することはできないのかと思いました。フリースクール東京シューレDAYS JAPANなどにおいても同様に思います。人間に対し人間として向き合うということ、当事者にとって重要なことを当事者によって守るということ、自分に必要なことを考えることを専門家に一任してしまわないこと、受動的存在とされ好きにコントロールされるところから当事者が一から人間とは何か、尊厳とは何か、尊重とは何かを考えていく主体性を取り戻すことが必要だと思われます。社会的に「良いこと」をやっている団体における内部の抑圧の問題に向き合うことを通して思考する主体を取り戻していこう動きはおこっており、僕自身もまたそこに関わるかもしれない様相にもなっています。人間が人間として扱われることができない非文化的社会において、人間が人間として扱われる文化を取り戻していく個人の運動がはじまっていくのかと思います。そこでは、学びと回復と社会運動が混ざりあった環境が生まれるのかと思います。

時間切れでここまで。

次回DIY読書会は9/14(月)19時半〜

DIY読書会、次回は9月14日(月)19時半〜です。

 

発表は差別についてほか。


Zoomミーティングに参加する
https://us02web.zoom.us/j/84164801778?pwd=Q1pHdjRKcG1zTGl2ZVJpREVRMDJMUT09

 

ミーティングID: 841 6480 1778
パスコード: 606563

 

前回のレジメ

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8/17 DIY読書会と問題意識

◇今回はフレイレはお休みし、DIY読書会と最近の問題意識について発表します。

DIY読書会について
 南区DIY研究室読書会はもともとものづくりを趣旨とした読書会だったそうです。僕は初期(3年前?)のほうから参加していたのですが、最初のほうはインゴルドとか共同幻想論とかやってたなあという印象でしたが特にものづくりがテーマだということに気づいて(自分が聞いてなかっただけかも。)いました。途中ぐらいから本を全部読まなくても発表していいのではないかとか、何も読んでいなくても発表してもいいのではないかとか、色々提案しました。結果として主宰のカサルーデンスの方にとってもなぜこんなふうになっていったのかがわからないということなのですが、自分としては読書会でやっていること、おこっているこというのはこういうことではないかと思っていることを書いてみます。

 

 読書会は参加者にも恵まれて基本的に自由で、他者の意見を否定したりせず、その人の言っていることを参加者が楽しむという感じになっていると受けとっています。普通、発表というのは忌避されるものですが、この読書会ではむしろ発表者が多くて時間がないというほうが多いかと思います。そこは読書会がそれまで義務的に強制されるものであった学校の教育でネガティブに刷り込まれた学びへの否定的イメージを更新し、学びの主体性を取り戻すというものになっていると思っています。

 

 そもそも学びとは思考や世界に対する感じ方が更新される出来事であり、僕は言葉を持った人間(言葉の世界に閉じ込められて変わらない風景を見続けさせられる存在。)にとって、世界に対する感じ方が新鮮になることは他の何にも勝るやりがいであり、求めであると思っています。繰り返しますが、それにも関わらず、強制された教育によって、義務的なこととみなされ、近づくことに抵抗があり、自分が生きるなかでごく自然に好んで学んでいることを知らないのが多くの人の感覚であるのかと思います。興味のあることを人に伝えるなかで自分のプロセスがすすみ、見えている風景が変わってくる。教育哲学者林竹二は、学びとはカタルシスだと言っています。蓄積ではなく、精神のなかでくすぶっているものを一掃していくようなことこそが学びであると思います。

 

 学びについての否定的な体験があり、発表のような表現に対して、容赦のない人からの攻撃や否定、侮辱は世間で一般的です。発表に対して忌避感があるのは当然ですが、読書会においてはその人が自身の根源的な求めをもち、探究していくことにおいて、何をどう考えようが自由であると思います。参加者はそれを尊重するということが重要であると思います。差別や無意識の偏見のようなことはもちろん問題にされるべきですが、わざわざこの場にきている人は差別によって自分のアイデンティティを守ることではなく、むしろ探究のほうが重要な動機としてあるため、それが場の雰囲気となって、余計に差別的なことや人をだしにして自分を高めるようなことがよりおこりにくくなっているところはあるのではないかと思います。

 

 そういうことで、僕はDIY読書会は学びの本来性から疎外された現代の人たちがそれを取り戻していく場なのではないかと思っています。本当に関心あることに関わること、そしてそれを共有していくなかで、刷り込まれた否定性は徐々に消えていくと考えています。内面に組み込まれてしまった疎外を打ち消していくということをやっていると考えています。

 

◇問題意識
 最近この読書会にも来られている方たちがやっているグループの丸一俊介さんがマイクロアグレッションの記事を出していました。マイクロアグレッションについて、あらためて認識を深められました。そして記事中で指摘されていることで一番僕が印象に残ったのは、「軽い」見下しや侮辱のような経験を受けた人は集中力や理解力が落ちるという研究結果の紹介の部分でした。差別に無自覚なマジョリティであっても、見下しや侮蔑に常に晒されています。そして自分は差別はしていないと思っています。

 

よって、「教育的」に働きかけられない限り、自分からは差別をなくすための取り組みをしません。僕はその部分に対する問題意識をもっていました。差別は差別としてはっきりと否定していく取り組みが必要であり、もう一方で、そもそも人を尊重するということがどういうことかを知り、実践的に学んでいく場が必要であると思うのです。

 

マジョリティにとって、「差別をやめましょう」という言葉かけは残念ながら学校の先生に言われる面倒くさいこと、取り組む必要のない綺麗事のように聞こえるでしょう。やったらダメなことを増やすイメージなのだと思います。しかし、お互いを尊重することを実践的に学んでいくというところには、差別をこえていく共通の土台が持てるような気がするのです。