次回DIY読書会は10/12(月)19:30〜

次回のDIY読書会は10月12日の19時半からです。

 

前回発表した「尊重について」を転載します。

 

2020年9月 私の探究・研究相談室

◇発表の概要と自分のスタンス
 この発表は、個々人の依拠する自己像を日常的で無自覚な侮蔑や見下しで侵害し毀損していく現社会環境において、この状況を変えていくための軸が「尊重の獲得」にあるのではないかと仮定し、その可能性を考えてみたものです。ここにおいて「尊重」は単に「人を自分なりに大切にする」などの個々人が適当に持っている曖昧なイメージではなく、むしろそういう曖昧なイメージに依拠することをやめ、「尊重」を明確な筋の話にできないかと考えています。つまり尊重していないという事態は、それをおこなったその人がどんなつもりとか意思とか感情や理解できるかできないかなどの「心理主義」と関係がなく、自分と違う体をもち、自分と違う歴史的文脈や文化を生きる他人に対して「筋違い」のことをおこなったということになると考えます。

 自分のスタンスとしては、特に話の場や学びの場などをイメージして考えています。人が変化していく場面においてより重要となる具体的な尊重のあり方を考えることで、日常において立ち返る判断基準の手がかりを得られると考えています。

 

◇尊重と文化 
1 個々人の考えや感覚に任せれば個々人は自分の知らないものに排除的になったり、あるいはその存在が無いものとして振る舞う。社会的存在であること、お互いさまの関係である人間が、その自己中心性、自己完結性によるお互いの疎外を打ち消すための文化として、またお互いが社会的存在であることに対してのけじめとして尊重が必要になる。

 

 もしやったことの結果をよく踏まえない人がいてアパートの屋上から自分が毎日歩いている道路へぽいぽいと色んなモノを投げて遊んでいたら、その人がどれだけ悪気なく楽しい気分でやっていても、気分が救われると感じていたとしても、止めようとすると思います。その人は何が悪いのかわからず、自分の自由を制限することに強く反発するかもしれません。君も投げたらいいとか、自分が満足する代わりの遊びをあなたが見つけない限りやめない、あなたは自分に対して責任をとる必要があるというかもしれません。しかし、その人の投げる行為によって自分は不可逆的な身体的毀損を受ける可能性があります。そのような不可逆的な毀損をあなたは引き受けるのかと難癖をつけてくる相手に問うならば、さすがの相手もそれを認めることが難しいように思います。(それでも認めない場合はあるでしょうが。)


2 尊重はそもそも自分の既知の世界の外にいる他者に対してあるもの。既知の外(自分が知らないこと、わからないこと)のことに対してあらかじめ既知のうちで態度を決めているのならそこに尊重はない。尊重とは現在の自分の心理的実感では正しく捉えられないことに向き合うことであるという土台となる前提の共有からしかはじまらない。多くの「議論」が最初から尊重を拒絶していることが思い返される。

 

 他人に対して重大な毀損を与えることに対して自分がどういうつもりであったのかというような内面の心理は関係がありません。別の体を持ち、別の歴史的文脈をもち、別の文化を持っている他人同士が一方的に毀損されないためには、お互いがどういうつもりだったのかなどによって無化されない指針、個人的な感情や気分では左右されない指針の共有が必要でしょう。その指針によってようやく個人は自らが持っているゆがみや偏りに対してけじめをつけることができるのだと思います。尊重とは、自分が現在持っている基準と関係なく、別の生を生きる不可知な存在である他者の存在を認めるという文化的指針でありけじめのことでしょう。それにより結果的に自分自身も相手に心理的に「理解」されずとも人間として守られるのだと思います。逆に相手が自分の感覚や考えが絶対化され、その感覚と違うからあなたを尊重することはできないということがまかり通るような環境は、人間が人間であることをやめざるを得ず殺伐とした野生状態にもどった非文化的環境であるといえるのではないかと思います。

 

一例を出すならば、カウチサーフィンというお互いに最初は知らなかった人が宿を貸し合う仕組みがあります。もちろん問題もおこっているでしょうが、基本的に全く知らない相手にもかかわらず、危険をおよぼさないという仮定を信じなければ成り立たないし、またそう仮定しないことには文化的なことは育たないのです。別の国に旅をするということも全ての危険を疑いながら通り過ぎる単なるサバイバルになってしまいます。文化の豊かさとは自分以外のものに自分をゆだねる豊かさであり、潜在的な危険もあるのにおこなっている前のめりな信頼を前提として受け取っているものです。人は他人に自分の生命保持を含めて自分をゆだねているのであり、その前のめりの信頼を裏切ることは、その被害個人だけでなく、お互いの関係性において維持されている文化への深刻な毀損と加害になります。


◇日常的な侮蔑や見下しの現れとその対応
1 日常的な見下しや診断、侮蔑に溢れた世間 尊重はなく話をきくということも知らない
 内面のことを含めた話の場がなかなかないなと大学のころから思っていました。世間一般においては人の話を聞くということがなされていないと認識しています。その人を尊重して話を聞くということがそもそもどういうことかも理解されていない。自分の間尺や「世間の普通」で他人の言うことを診断したり、考えるな気にするなみたいなことを言うのがアドバイスだと思っていたり、苦しんでいる人に対して、まずその苦しみを受けとめ共に見つめるのではなく、それを苦しみと思うあなたの捉え方が間違っているとか、悪気なく平気で言います。

 

2 仕方がないから自給的に場をつくる
 そういうわけで、まず自分の周りに話ができる場を作らないとどうにもならないと思って当事者研究の場を何箇所かでやってみました。そこでやったことが基盤となって、今の個人的な人間関係において話ができないという感覚はありません。振り返ってみると、内面的な話が特に場を作らなくても自然にできる人が周りに増え、いざちゃんとした話しの場を持とうとしたとき応答してくれる人たちとつながったと思います。周りの人たちは、自分で話の場をもうけることができるので、何かあれば話の場をもうけて話しあいます。

 

3 周りの環境は自分の求めに対して変わっていっているが世間は変わっていない
 個人的な範囲においてはそれで必要は満たすことができるようになりましたが、世間一般が話しを聞かず、人を尊重しないということはまるで変わっていません。僕は尊重とは綺麗事ではなく、尊重のもとでしか人はその人として変化していくことができず、不本意に直面している状況を停滞させてしまうと思います。またこの社会にある女性蔑視、在日の人たちへの差別、性的マイノリティにへの差別、外国人差別などは発言する本人にとって「差別でもなんでもない」と思われることが、実際にはその人たちへの日常的な侮蔑や見下しを含むことを知らない状況です。差別とは何かということを一個一個覚えていくことも重要ですが、まず自分が知らない他人の尊重とは何かから問いたいと思っています。


◇存在の毀損がどういうものか
1 スマホのヒビ 自己像の毀損
 日常的で無自覚な侮蔑や見下しを受けることは、その人の核を傷つけます。その核は普段は意識されていないのですが、侮蔑や見下しによって内奥を傷つけられるときに感じられます。そして侮蔑によって毀損された自己像はその侮蔑を日々反芻させます。たとえてみれば、普段使っているスマホがあったとして、誰かがそれをぞんざいにそこらへんに投げてヒビをいれます。そのことを指摘すると「ああ悪気はなかったし」と軽くいなされそれで済まされてしまいます。それ以後、普段使うスマホはいつもヒビが入っています。そのヒビを見るたびに侮蔑的に扱われたことが思い出され、みじめな気持ちになります。なぜ自分はあのように扱われなければならなかったのか。そういうふうに扱われる自分とは何なのか。なぜ自分はあのとき何かできなかったのか。不甲斐ない思いに苛まれ、それが別の失敗を引き起こしたり、不全感が高まり何かをやること自体を恐れてしまったり、自分として生きている感覚が奪われます。スマホは買い換えたり、画面を交換したりできるでしょうが、毀損された自己像に入ったヒビはいつまでもそのままであり、そのヒビが入ったときの惨めさを何度でも思い返させます。その人の時間は止まってしまい、ただその惨めさに対応するのが精一杯の日々になってしまいます。

 

2 存在の毀損 存在の陵辱 尊重と尊厳 重さ
 軽い気持ちで言ったことであれ、その言葉が相手の自己像の核を侵害して毀損することはおこりうることです。そしてそのことによってその後も本人のなかで侮蔑体験が繰り返されることを考えるならばそれは相手の存在の陵辱、実存の陵辱をおこなったにひとしいと思われます。誰も相手の存在を陵辱する権利は持たないし、一度与えた陵辱を消してしまうこともできません。踏み入ってはいけないところまで踏み入ってしまったことを自分の罪として認め、その重さを引き受けることによって、今の自身の価値認識が解体されることが求められます。それは死と再生の過程とも人間化の過程ともいえ、尊厳とは何かを知るということでもあるかと思います。人を尊重するということは、人に対して尊厳を提供するということでもあると思いますが、尊重や尊厳の理解とはある人が依拠している価値を侵食するようなことを決しておこなってはいけないという理解であると思います。どのようなジャッジも意味や有用性も入ってはいけない、意味の侵入を断固として拒絶する場所、意味の真空地帯が人間が人間としての生を取り戻していく場所であり、人間が依拠するところでもあるのだと思います。尊重や尊厳というと、最大限に肯定的な敬意を提供するようなことのように思えてそうではなく、相手を不可知な存在として、いかなる世間的価値基準によってもその人の存在を規定するような意味や規定を断固としてその人に侵食させないということであり、肯定的にとらえておけばいいだろうということではありません。自分が思っている「肯定的」などはまるで存在に対する侮辱でありうることを踏まえる必要があります。あなたの考えの枠組みで他人を判断するなということでもあります。尊重するとは不可知なものに対する向き合いのことなのです。

 

2 止まった時間を動かすための尊重
 記憶自体は残っていても記憶による二次的なみじめさや怒りなどの反応は軽減させることはできうると思われます。時間が止まり凍りついた記憶に時間を与え、経過させていきます。そのときのリアリティを喚起させながらそれが経過していくために必要な環境設定を整えます。経過のプロセスはもともと自律的であるととらえ、その経過のプロセスが求めること、打診してくる体験を自分に与えます。重要な環境設定は、その経過が浮かび上がり展開することを阻害する不安要素、更に傷つくかもしれない可能性などを取り除くことであるでしょう。物理的な危険への不安だけでなく、その人の存在の意味が規定され序列づけられような自分の価値基準を場に侵入させること自体を控えることが適切であると思います。それが言動のけじめということになると思います。

 

3 非文化的社会との対峙
 社会福祉法人浦河べてるの家の関連施設べてぶくろでおこった性加害の被害者への抑圧は被害者の告発があってなお、べてぶくろが優位に立ったままやりとりが行われています。いったいこれまでべてるの家が主張してきたことはなんだったのでしょうか。結局は自分たちの作った「救済システム」だったり自分たちのステイタスの向上、組織の維持が大事なのであって、人間に対し人間として向き合うということをどこかの組織に期待することはできないのかと思いました。フリースクール東京シューレDAYS JAPANなどにおいても同様に思います。人間に対し人間として向き合うということ、当事者にとって重要なことを当事者によって守るということ、自分に必要なことを考えることを専門家に一任してしまわないこと、受動的存在とされ好きにコントロールされるところから当事者が一から人間とは何か、尊厳とは何か、尊重とは何かを考えていく主体性を取り戻すことが必要だと思われます。社会的に「良いこと」をやっている団体における内部の抑圧の問題に向き合うことを通して思考する主体を取り戻していこう動きはおこっており、僕自身もまたそこに関わるかもしれない様相にもなっています。人間が人間として扱われることができない非文化的社会において、人間が人間として扱われる文化を取り戻していく個人の運動がはじまっていくのかと思います。そこでは、学びと回復と社会運動が混ざりあった環境が生まれるのかと思います。

時間切れでここまで。