次回DIY読書会は9/14(月)19時半〜

DIY読書会、次回は9月14日(月)19時半〜です。

 

発表は差別についてほか。


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8/17 DIY読書会と問題意識

◇今回はフレイレはお休みし、DIY読書会と最近の問題意識について発表します。

DIY読書会について
 南区DIY研究室読書会はもともとものづくりを趣旨とした読書会だったそうです。僕は初期(3年前?)のほうから参加していたのですが、最初のほうはインゴルドとか共同幻想論とかやってたなあという印象でしたが特にものづくりがテーマだということに気づいて(自分が聞いてなかっただけかも。)いました。途中ぐらいから本を全部読まなくても発表していいのではないかとか、何も読んでいなくても発表してもいいのではないかとか、色々提案しました。結果として主宰のカサルーデンスの方にとってもなぜこんなふうになっていったのかがわからないということなのですが、自分としては読書会でやっていること、おこっているこというのはこういうことではないかと思っていることを書いてみます。

 

 読書会は参加者にも恵まれて基本的に自由で、他者の意見を否定したりせず、その人の言っていることを参加者が楽しむという感じになっていると受けとっています。普通、発表というのは忌避されるものですが、この読書会ではむしろ発表者が多くて時間がないというほうが多いかと思います。そこは読書会がそれまで義務的に強制されるものであった学校の教育でネガティブに刷り込まれた学びへの否定的イメージを更新し、学びの主体性を取り戻すというものになっていると思っています。

 

 そもそも学びとは思考や世界に対する感じ方が更新される出来事であり、僕は言葉を持った人間(言葉の世界に閉じ込められて変わらない風景を見続けさせられる存在。)にとって、世界に対する感じ方が新鮮になることは他の何にも勝るやりがいであり、求めであると思っています。繰り返しますが、それにも関わらず、強制された教育によって、義務的なこととみなされ、近づくことに抵抗があり、自分が生きるなかでごく自然に好んで学んでいることを知らないのが多くの人の感覚であるのかと思います。興味のあることを人に伝えるなかで自分のプロセスがすすみ、見えている風景が変わってくる。教育哲学者林竹二は、学びとはカタルシスだと言っています。蓄積ではなく、精神のなかでくすぶっているものを一掃していくようなことこそが学びであると思います。

 

 学びについての否定的な体験があり、発表のような表現に対して、容赦のない人からの攻撃や否定、侮辱は世間で一般的です。発表に対して忌避感があるのは当然ですが、読書会においてはその人が自身の根源的な求めをもち、探究していくことにおいて、何をどう考えようが自由であると思います。参加者はそれを尊重するということが重要であると思います。差別や無意識の偏見のようなことはもちろん問題にされるべきですが、わざわざこの場にきている人は差別によって自分のアイデンティティを守ることではなく、むしろ探究のほうが重要な動機としてあるため、それが場の雰囲気となって、余計に差別的なことや人をだしにして自分を高めるようなことがよりおこりにくくなっているところはあるのではないかと思います。

 

 そういうことで、僕はDIY読書会は学びの本来性から疎外された現代の人たちがそれを取り戻していく場なのではないかと思っています。本当に関心あることに関わること、そしてそれを共有していくなかで、刷り込まれた否定性は徐々に消えていくと考えています。内面に組み込まれてしまった疎外を打ち消していくということをやっていると考えています。

 

◇問題意識
 最近この読書会にも来られている方たちがやっているグループの丸一俊介さんがマイクロアグレッションの記事を出していました。マイクロアグレッションについて、あらためて認識を深められました。そして記事中で指摘されていることで一番僕が印象に残ったのは、「軽い」見下しや侮辱のような経験を受けた人は集中力や理解力が落ちるという研究結果の紹介の部分でした。差別に無自覚なマジョリティであっても、見下しや侮蔑に常に晒されています。そして自分は差別はしていないと思っています。

 

よって、「教育的」に働きかけられない限り、自分からは差別をなくすための取り組みをしません。僕はその部分に対する問題意識をもっていました。差別は差別としてはっきりと否定していく取り組みが必要であり、もう一方で、そもそも人を尊重するということがどういうことかを知り、実践的に学んでいく場が必要であると思うのです。

 

マジョリティにとって、「差別をやめましょう」という言葉かけは残念ながら学校の先生に言われる面倒くさいこと、取り組む必要のない綺麗事のように聞こえるでしょう。やったらダメなことを増やすイメージなのだと思います。しかし、お互いを尊重することを実践的に学んでいくというところには、差別をこえていく共通の土台が持てるような気がするのです。